休日に何か一本映画を観るようになって、かれこれ十数年になりますが、そのうちおそらく8割ぐらいはホラー、サスペンス、ディザスター、戦争、アクション、ガンダムが占めているであろう我が家。
それがどうした風の吹き回しか、ここ数か月、週末に「名作」「古典」とよばれる映画作品を観ています。先週末はフェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」(原題:LA STRADA)を観ました。その感想です。
その前に、私の映画歴について簡単に。私自身は、もともと映画を観る習慣がありませんでした。
生まれて初めて劇場に見に行った映画はドラえもんの「のび太の恐竜」でしたが、以降、亭主と一緒になる前に見た映画(TVのなんとかロードショー以外で)は、50に満たないのではないかと思います。
で、そのうちの一本は、20年以上前に観たフェリーニの「甘い生活」だったんですけどね。これが困ったことに「よくわからなかった」という印象しか残っていないんですよ。
ちなみに当時、同じ時期に観て、同じくよくわからなかった映画は、「地獄に堕ちた勇者ども」「裸のランチ」「イージー・ライダー」「欲望(BLOWUP)」「天使の涙」「ブリキの太鼓」などです。
ゴダール監督の作品も3本ほど観たのですが、いずれも開始5分ほどで入眠してしまったというあたりで、当時の私の映画の受容レベルをお察しください。平たく言うと、1990年代に雑誌「CUT」で紹介されているような映画がわかる人間になろうと試みたけれども失敗した、ということになるかと思います。
そのような私ですので、フェリーニの「道」を見るにあたっては、かなり身構えていました。ここ数か月の間、1930年代から1950年代の名作を観て、モノクロ慣れしていたとは言え、芸術性が高いとされる映画がわかるようになったとは思えなかったからです。
しかし結論から言うと、「道」は十分に楽しめました。言葉や映像にあらわれていない隠された意味はおそらく理解していませんが、お話として興味深いものでした。
「道」は1954年の作品です。あらすじは、ざっくり言いますと旅の大道芸人ザンパノに売られた少女ジェルソミーナの物語。
このザンパノという男は「野卑」という言葉そのものの人物です。ジェルソミーナに芸を仕込もうと鞭がわりの木の枝でしばくわ、酒場や一時滞在先のサーカスで喧嘩をするわ、隙あらば盗みを働こうとするわ。
また、ジェルソミーナのことを嫁だと周囲に言いながら、彼女を放置して行きずりの女と関係を持ったりします。
一方、ジェルソミーナは感情表現が下手というか、ちょっと「アレな」子という扱いで、ザンパノから受ける仕打ちをどうとらえているのか、観ている側からはわかりにくいところがあります。
彼女を観ていていだいた感情は、前半はちょっとイライラ、後半は観ていると息苦しくてつらくなるというものでした。特にジェルソミーナが、好意を抱くサーカスの綱渡り芸人から小石をもらって、ある決断をしたシーン以降が辛い。
いや、一瞬、こう思ったんですよ。
あら?どんな小さなものにも役割はあるというちょっといい話なのか?
もしかして、さしずめ現代なら「旅する石ころ—わたしのしあわせの見つけ方」なんていうキラキラした邦題が付けられるやつか?
それってちょっと陳腐じゃないか?
しかし全くそんなことはありませんでした。そりゃそうですよね、まあ巨匠フェリーニの傑作とされる作品がそんな薄っぺらいわけがない。
先ほど「十分に楽しめました」と書きましたが、それは「勇気が出る」「ハッピーになれる」ということではありません。
そのときどきの気持ちに従った結果、思いもよらぬ道に踏み込んでしまった人たちが経験するだろう感情を嫌でも疑似体験できる作品、という意味です。
ということで、「フェリーニやっぱりわからんかった」は回避できましたが、何とも言えない思いに取りつかれました。疲れているときや、「自分、ダメだな」と思っているときは観ない方がいいかもしれません。